闇色の空に少し掛けた月が昇ってゆく。
ぺらりと紙をめくる音とペンを走らせる音が閉め切られた部屋の中に響いていた。
「なんだ、助けてくれっていうから心配したのにあんま直すとこねーじゃねーか」
「ですがやはりドイツ語となると表現方法は本場の方にはかないませんし……」
「菊は真面目だなぁーほんと。あぁ、でも少し手直しがいる箇所があるから付箋貼っとくぞ?」
「あ、はい。お手数お掛け致します」
「ばーか。これくらい手間でもなんでもねーよ。あと5分もかかんねーんだし。
それよりいつもは俺のほうが菊の世話になってんだ、これくらいはさせろよ」
な? とウインクしながらギルベルトはにっと笑う。
スーツの上着を脱いだままシャツの袖をまくり、あまり日に焼けない素肌をさらけ出したまま菊の髪を撫でた。
くしゃりくしゃりと菊自身の性格を表すかのような真っ直ぐな黒髪の感触を楽しみながら。
普段はしない細身の黒縁眼鏡をかけ、ペンを持つ片肘をつきながら眼を細めて。
「ですが……」
「あぁ、だったらこの前作ってくれた肉じゃがだっけ? あれ食いてぇ」
「わかりました。では今度作って持ってきますね」
Danke! と嬉しそうに笑ったギルベルトを見て、菊ははにかみながら微笑みを返した。
大好きな肉じゃがを作って貰う約束を取り付けたギルベルトは白と紺青色の幅の違うストライプ柄のネクタイをしゅるりと解いた。
そして第二ボタンまで外し、少しだけ胸元を開け菊から頼まれたレポートの修正をすべく再びデスクへと向き直した。
よほど嬉しいのか鼻歌を歌いながらペンを走らせるギルベルトを見つめながら、菊は甘い胸の痛みを感じていた。
就職難の中、菊は外資系の会社に入ることが出来た。
そこでギルベルトと知り合い、仲良くなり彼――ギルベルト――の人となりを知って気がつけば惚れていた。
今まで人を好きになったことがなかった菊は己の恋心すらなかなか気が付かず、出会って数年経つのに自覚したのも一週間ほど前だ。
もともとあまり表情が表に出ないことが幸いしてか、ギルベルトとの友人としての距離は保てて居る――と思っている。
――もっともこの思いを告げる予定なんてないんですけどね。
目を伏せながらどこか自傷気味に笑えば「どうかしたか?」と目ざとくギルベルトから声がかかる。
いいえ、ちょっと考え事を……と返答すればあんまり根を詰めるなよ? と心配された。
「恐れ入ります。善処します」
「それはいいえだろうがっ!?」
お前なぁ〜なんて言いながらギルベルトは容赦なく菊の髪の毛をぐしゃぐしゃにしてしまう。
たったそれだけなのに菊の心臓は跳ね上がり、体が熱を帯びる。
そんな自分の変化を知られたくなくて、菊はついつい俯いてしまう。その行為が逆効果だと知らないまま。
「……まぁでも安心した」
「安心、ですか?」
「おうっ。ここんとこ心あらずっていうか妄想だっけ?
そういうんじゃないこと考え続けてたみてーだかなーお前」
「えっ――!?」
「すっきりしたっていうのか? なんか分からない答えが見つかったような顔してるぜ?」
「そんなに顔に出てますか? 他の方には無表情だと思われてるみたいですが」
「あー他の奴らはなー。でも俺様は違うぜ? ちゃんと分かってるからなー」
「それが不思議なんですよね。なんでギルベルト君には分かるんでしょうか?」
気が付かれていませんよね? と思いながら菊が言葉を紡げば、ギルベルトはにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
再び伸ばされた手にまた頭を撫でられるのかと思い、見れいればその左手は菊の顎を捉え、上を向かされた。
「……ギルベルト君?」
「ったくやっと自覚しやがって。遅ぇよ!」
「――へ?」
「こっちはずっとお前にアプローチしてたってのに全然気が付きゃしねーし。
まぁでもこれでやっと言えるな」
「え、あっ? ちょっと待ってください!」
「待ってやんねー。どうやら噂を鵜呑みにしてるらしいからな、この際だはっきりさせとく。
俺が惚れて、愛してんのは菊――お前なんだ」
逃がさないように抱きしめたままギルベルトは菊の耳元で囁く。
急な展開についていけない菊にとどめを刺すかのように――けれど甘い音を含ませて。
――― END ―――
【 初出:2012/07/24 TwitLonger / 2012/07/30−Pixiv『 既に望むは? 』より 】